20年3月31日更新
○JDは2020年3月31日、「声明 津久井やまゆり園裁判員裁判の終結にあたって」を公表しました。
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2020年3月31日
声明
津久井やまゆり園裁判員裁判の終結にあたって
昨日をもって植松聖犯人の刑が確定し、「やまゆり園」事件の裁判員裁判は幕を閉じた。私たちは釈然としない。それは、真相が何一つ解明されなかったからである。今の時点で私たち自身に、そして社会に向かって強く言いたいことは、「事件を忘れない」である。
2016年7月26日未明、元施設職員が、就寝中の障害のある利用者を襲った。19人の利用者が殺害され、26人の利用者と職員が傷つけられた。「障害者は不幸をつくることしかできない」という差別と偏見で歪んだ被告の考えは、裁判中も一貫して変わらなかった。
私たちは、裁判の審理を固唾をのんで見守った。事件の背景の解明を期待したのである。被告がなぜ、どのような経過で、障害のある人への差別、偏見、殺意をいだくことになったのか。どのような人生を送ってきたのか。実行に移す強い動機は何だったのか。入所施設である津久井やまゆり園での勤務経験が影響していなかったのか。措置入院に問題はなかったのか、など。しかし、何一つ明らかにされることはなかった。
二度とこのような殺傷事件を起こさないためにも、障害者への差別や偏見をなくしていくためにも、それらを徹底的に解明することで、多くの人たちが私たちの社会のあり方を考える大切な機会になったはずである。それこそが、失われたいのちに対する精一杯の報いだったはずだ。しかし、実際には裁判は、被告の責任能力を問うことにのみ終始した。
また、裁判では被害者が1人を除いて記号で呼ばれた。記号での裁判の背景には、重い障害のある人や家族が置かれた現代社会での厳しい状況があることは間違いない。しかし、記号で呼ばれた裁判は、いのちを奪われた人たちの人格や人生が否定されているようにも思え、残念でならない。
「障害者は不幸をつくることしかできない」「生産性のない人は生きる価値がない」という思想は、被告一人だけのものではない。SNSなどの反応をみると、この社会に根深くはびこっていることを危惧する。私たちは、社会のそこかしこに潜む差別や偏見と対峙し、自身とも向き合っていかなければならない。
何より障害当事者が、障害を理由とした我慢から、障害を理由としたあきらめから、解き放たれなければならない。家族も同様である。解き放たれた向こうに、障害者にとっての真の平等が、そして誰もが住みやすい社会が待っているに違いない。
くり返し述べる。「裁判員裁判は終わったが、真相は闇の中」と。そして、「忘れない」とも。私たちなりに、これからも事件と向き合っていきたい。立法府や政府に対しても真相の解明を迫りたい。
障害者権利条約は、性別、年齢、人種などと同様に、機能障害も人間の権利と尊厳を損ねるものではないと謳っている。引き続き、犠牲者の無念さを胸に、障害者権利条約を高々と掲げ、だれも排除しないインクルーシブ社会の実現に向けて尽力する所存である。
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