講師 調 一興(JD代表)
推進協およびJDの主な活動と国内外における障害者施策の動き(1980〜2000)
まず時系列で、国際障害者年以降の障害者施策等の変化について簡単にふれたいと思います。
日本では「国際障害者年」(1981)の二年前、1979年にその情報をキャッチしました。この時、わが国は経済的にかなり発展しているにもかかわらず、障害者施策の遅れを関係者は認識していたので、この機会に積極的に取り組む機運を盛り上げることから始まりました。
1980年3月、政府は総理府(現内閣府)内に国際障害者年推進本部(翌年4月から障害者対策推進本部、推進本部)を設置しました。民間でも、障害者の「完全参加と平等」の実現にむけて関係団体が大同団結し、同年4月、約70団体で国際障害者年日本推進協議会(推進協)を設立しました。
1982年3月、政府は「障害者対策に関する長期計画」を策定、これに先んじ、推進協でも民間の立場からの「国際障害者年長期行動計画」をまとめました。
1983年から「国連・障害者の十年」(〜1992年)が始まります。
1986年の国民年金法改正により「障害基礎年金」が創設されます。これは画期的なことでした。1987年5月、身体障害者だけを対象とした「身体障害者雇用促進法」が「障害者の雇用の促進等に関する法律」に改正、職業的ハンディキャップをもつすべての人を対象とする法律に変わりました。同年六月、政府から「『障害者対策に関する長期計画』後期重点施策」が出されます。同年9月「精神衛生法」が「精神保健法」に変わりました。このとき初めて、精神障害者の社会復帰制度が法律に一部盛り込まれ、精神障害者福祉がここでようやく始まりました。
1989年5月、知的障害者のグループホームが初めて日本で制度化され、自立を進める制度という意味では画期的なことでした。同月、手話通訳士制度が創設されますが、これは今も不十分です。
1992年は「国連・障害者の十年」最終年です。この時、民間団体では、北は北海道稚内、南は沖縄石垣島を出発点として、障害者問題を訴える列島縦断キャラバンを実施、また並行して全国の市町村に対する網の目キャラバンを実施しました。これは大成功でした。バリアフリーなどへの国民の意識が全国的に芽生えたのは、この活動の成果です。同年6月、障害者の雇用の促進等に関する法律の一部改正。同月、ILO159号条約の批准。これは障害者の雇用促進およびリハビリテーションおよび雇用に関する条約という形で出され、ILOからの新しい雇用の場面に対する問題提起がなされました。
1993年4月、推進協は現在の「日本障害者協議会」に名称を変更しました。
この年、身体障害者施策が市町村に権限委譲、同年5月には「福祉用具の研究開発および普及の促進に関する法律」が制定されました。これにより厚生省(現厚生労働省)と通商産業省(現経済産業省)の役割が明確になり、技術は通商産業省、ニーズ把握と普及は厚生省という役割整理が行われました。同時に、本格的な研究開発に乗り出すことになり、予算もこれを契機に大きくなりました。同年12月には「心身障害者対策基本法」の理念や内容を大きく改定し、「障害者基本法」が成立しました。
1994年6月、公共的な建物のバリアフリーを義務づける「高齢者・身体障害者等が円滑に利用できる特定建築物の建築の促進に関する法律」(ハートビル法)が公布されました。
同年、厚生省内に障害者保健福祉施策推進本部を設置し、本格的な障害者保健福祉施策の策定が始まります。この作業を基礎に、後に障害者プランに発展します。
1995年5月、推進本部が「市町村障害者計画策定指針」を策定、同年7月に「精神保健法」が「精神保健および精神障害者の福祉に関する法律(精神保健福祉法)」に改正されました。
1996年7月、今まで3局にまたがっていた障害者保健福祉行政を統合し、大臣官房に障害保健福祉部が設置されました。しかし、一体となって総合性を発揮しているとはいえない状況です。これは、精神障害に関わる精神保健福祉法が、医療と福祉が混在した法律であることにも深く関係をしています。
一九九八年六月、わが国の社会福祉の基礎構造を根本的に変える「社会福祉基礎構造改革について(中間まとめ)」が公表されました。同年九月、精神薄弱の用語を知的障害に改める法律改正が行われ、また、十二月には「特定非営利活動促進法(NPO法)」が施行されました。
1999年12月、民法改正による「成年後見制度」が創設、翌年4月から施行されました。2000年5月には「高齢者、身体障害者等の公共交通機関を利用した移動の円滑化の促進に関する法律(交通バリアフリー法)」が成立しました。同月、社会福祉基礎構造改革が結論を出したということで、社会福祉事業法から社会福祉法に名称を変えました。内容的には、今までの公費による措置制度から、まず自己負担、いわゆる契約制度に移行する形に変えました。
今申しあげた動きを、順不同ですが整理してみます。
1番目に、バリアフリーは通信放送バリアフリー法、ハートビル法、交通バリアフリー法の3つの法律によってほぼ制度は完成しました。これから中身を作っていく状況にあります。
2番目は、雇用対策です。身体障害者はかなり重度でも企業に雇用されるようになり、在宅雇用の制度が有効に生かされています。とくにコンピュータ分野では画期的な前進を遂げています。現在、知的障害者も雇用率の対象になりましたが、まだまだ雇用は進んでいません。また、精神障害者については研究段階ですが、特別な雇用制度が必要と考えます。
3番目は、地域生活上での経済的自立の条件、所得保障の問題です。障害基礎年金の成立で基本的制度は作られたと思いますが、現在、1級が約8万3000円、2級が約6万8000円であり、重度の障害のために稼得能力のない人々は生活できません。その後の年金法改正でも、障害者の年金制度は、制度そのものに問題があるとの理由で改善されなかった経緯があります。
4番目に、障害者基本法の成立です。定義に社会的、経済的、文化的、あらゆる活動に参加する権利を加えたことは、障害者の生きる権利の幅を広げたということです。さらに企業経営者、交通・通信事業者に対し、バリアフリーやアクセスのための努力義務を法的に設けるなど、かなり具体的な改革が行われました。これによって本格的に基本法としての性格が強められたと思います。前文にもっと権利性をうたえ、との主張がありますが、この問題は時間をかけて解決しなければならないと思っています。
5番目は、精神障害者の福祉です。精神保健福祉法の成立で一応流れが作られたことになりますが、この問題は世界の潮流と逆行しており、極めて大きな問題を残しています。このことは後で少し詳しくふれたいと思います。
6番目は、福祉機器の研究開発・普及が本格的に進むようになったことです。
7番目は、「障害者プラン」です。数値目標は画期的なものでした。しかし、ごく一部の政策に限定され、また数値目標も極めて低く、プラン、戦略、障害者施策、七カ年計画といった文言にふさわしくない中身に終わったとことは残念でした。
8番目は、欠格条項です。障害者を締め出す欠格条項が日本にはたくさんあります。私たちが欠格条項の廃止を訴えはじめたのは、八年程前になりますが、ようやく政府も取り上げ、原則的に廃止することで見直しが行われています。しかし、かなり相対的欠格条項が残る状況のようです。もっとしっかりこの問題に取り組んでいかなければならないと思っています。
9番目は、市町村障害者計画です。現在の策定率は63・5%で、全国で2,058の市町村が策定したことになります。しかし、内容的には精神障害がはずされている計画や、数値目標がない計画など、極めて不十分なものです。
10番目は、障害者福祉行政の一元化です。これは大変すばらしいことです。しかし今度の行政改革で、残念なことに社会・援護局に編入される形になりました。
11番目は、障害者施策の行政権限が精神障害者を含めて市町村にほぼ移行したことです。精神障害の問題はあいまいな点が残っていますが、実質的にはほぼ移行したと判断していいと思います。
12番目は、社会福祉基礎構造改革。障害者の自立、サービスの選択、対等性などを措置制度が阻んでおり、その確保のために措置制度をやめる、というものでした。緊急の場合は措置制度で対応することになりましたが、実質的には廃止してサービス業者と利用者の契約に改めました。しかし、欧州などは、少なくともサービスは公費で行われています。公費では選択性も自立性も対等性もないという話はおかしいと思っています。また、小規模作業所の問題については、社会福祉法人の認可要件等を緩和し、定員を今までの二十名から十名規模以上に下げ、運営費は年間一律1,100万円、施設整備費は上限3,800万円、機械整備等は上限800万円といった国の制度にしました。今後は国がきちっと対応する方向にむかった、という点で評価できると思います。
大変荒っぽくまとめていえば、「障害者の雇用の促進等に関する法律」などの援助を受けて、企業への就職、あるいは自営業などで自らの力で生活費を稼ぐことができる人の施策についてはほぼできたと思います。ただし内容は、これからも改善・充実、あるいは新しく作っていくことが必要です。
ここで改めて、国際障害者年行動計画の中で、完全参加と平等について示した文章を確認したいと思います。
「障害者がそれぞれの住んでいる社会において社会生活と社会の発展における「完全参加」ならびに彼らの社会の他の市民と同じ生活条件および社会的・経済的発展によって生み出された生活条件の改善における平等な配分を意味する「平等」という目標の実現を推進することにある。こうした考え方は、すべての国においてその発展の水準いかんにかかわらず、同様に、等しい緊急性をもってとり入れられるべきである」ということです。
日本は素晴らしく経済が発展した国であり、途上国に比べ、経済的・社会的条件がそろっていると思います。それを前提に日本の障害者が置かれている状況を見てみます。
身体障害者は308万7千人(高齢による障害も含む)、そのうち15万4千人が、知的障害者は30万1千人、その約3分の1の10万5千人が入所施設で暮らしています。精神障害者は約34万人弱が入院生活を送っています。また、知的障害者や精神障害者の場合、地域で暮らしていても、家族の依存や支援によって生活しているのが実態です。
欧米では1965年頃から脱施設化を進め、1985年頃までに、ある国では入院患者の90%、ある国は65%を地域に帰しています。しかし、日本では同時期から、急激に入院ベッドを増やしていきます。1960年の精神病床は8万5千床でした。1975年には28万5千床、1985年には36万床と、25年間に27万5千床も増やしました。世界の流れと逆行したことが、なぜ日本で行われたのでしょうか。
最近、精神科特例は廃止の方向を政府が出しました。これに日本精神病院協会や日本医師会は反対をしていることをご存知でしょうか。その理由は、今、精神科の専門医は日本に一万人しかいなく、毎年4百人しか養成していない。例えば患者16人に医者を1人配置することになれば、医者が足りない。これが反対理由です。しかし20年前、精神科専門医は、わが国全体で2千〜3千人しかいませんでした。誰が病床を増やしていったか。精神科専門以外の医師が、悪くいえば金儲けのために増やしていったのです。このきっかけとなったのは、1964年のライシャワー駐日米国大使刺傷事件です。この時は大騒動で、精神障害者の収容体制を強化することが要請され、その結果、精神科病床が増えていくのです。したがって日本の精神病院は、治療のためではなくて、精神障害者を隔離収容することを目的に整備されてきたわけで、その体質が今もそのまま残っており、ここに大きな問題があるのです。
もう1つは、2親等までお互いに扶養義務を負うという明治29年にできた民法の規定を、未だに残していることです。民法877から881条を読んでみてください。知的障害者が地域で暮らしても家族が扶養する、子が50歳になり親も80歳になっても親が扶養しなければならない法律的な根拠はここにあるのです。精神障害者も同じです。一緒に暮らすのが大変なので、実態は家族も入院を望むのです。IT革命の時代に、この古い家族制度を残しているため、結局、入院か入所施設という対応にならざるを得ないのです。
そして、稼得能力のない人の地域生活、これが本当の「基礎構造改革」の問題なのです。この人たちがどのように地域で自立して暮らすことができるか、その方向を示すだけでも基礎構造改革の意味があると強く主張したのですが、結果的にはまったくふれられませんでした。障害分野については、構造改革が行われたというより、むしろ後退したと言わざるを得ません。
今後は、所得保障、地域ケアシステム、精神障害を医療法とはずして障害者福祉法に統合することなど、課題はまだまだあります。また、施設制度も根本的に見直し、現在の40数種類をスリムにし、総合的に処遇する方向にいかなければいけない。そして民法改正に取り組まなければいけない。今の政治の体質は古く、政治の舞台に持ち込むことは容易ではありませんが、どうしても立ち向かわなければならないと思っています。
(文責・事務局)